今年の就職活動の98%が終わる。あとできることは祈るだけ。みんなうまくいきますように。
成田美名子の CIPHER という漫画を先日持ってきて研究室に置いているのだが、この漫画の中でレヴァインという登場人物(この人物は同じ作者の ALEXANDRITE という漫画では主人公になっている)が、幼い子どもが「どしたの おいのり?」と訊くのに対して言う次の台詞がある。
人のために祈るってな 豊かなもんだな 世界で一番幸せなことかもしれない
自分は両親がクリスチャンなので、子どものころは日曜日教会に連れられて訳も分からず手を組んで「おいのり」なんてしていたのだが、なんでそんなことするのか分からなかったし、自分にとってはただしばらくの間目をつぶって半目で周りを見つつ、みんな終わったら自分も手を解く、みたいな儀式でしかなかった。
小学校の高学年くらいになると、自分と兄は教会に行かず日曜日も勝手に家で過ごすことが多くなってきたのだが、中学入試に受かったとき父から「教会の人たちがおいのりしてくれて合格できたのだから、教会に行ってお礼を言わなかったら学校に行く費用は出さない」と言われて渋々お礼を言いに行ったことを思い出す。中高一貫校で高校入試はなかったのだが、大学に受かったときも同じことを言われ、そもそもおいのりしてくれと頼んでもいない(実力で受かったのだ)と思ったし、勝手に自分の個人情報を流されたと感じて嫌だったのだが、そんなことを考えていたあのころは子どもだったなあと思う。
自分の子どもでも友人でも知り合いでもそうだと思うけど、自分にとって大切な人が人生で乗り越えるべき壁に直面しているとき、自分が変わってあげたい(自分なら簡単にできるのに、と歯がゆく思うこともあるし、つらいことでも自分なら平気だから代わりにやりたいと思うこともあるし)と思うことがあるが、やっぱりその人にとってそれが本当に重要なことであれば、それはその人自身が乗り越えないといけないことだし、その人の中にあるものを気づかせてあげたりするのはよいけど、代わりにやってあげるとむしろその人のためによくない。
こういうときって、自分にできることはその人がしあわせでありますように、って願うだけなんじゃないかな、って思う。祈っていればなんでもうまくいく、ともかぎらない(人間努力しないとうまくいかないけど、努力したからといって報われるとはかぎらない)のだけど、それでもしあわせでありますように、ておいのりするしかなくて、そういうふうに思える人がいたり、思ったりすること自体がしあわせなことなのかも、と思うことがある。
誰かのために祈るって行為を考えついた人はすごいよ。