対案

ふと、大学に入ったり就職活動始まったりすると、人の意見に反対するときは対案を出せ、(対案が出せないなら黙っていろ、)みたいな考えに染まる人が多い(自分も大学1年のとき就職活動してみて強く感じた)のだが、それは非常に危うい考え方だ、ということを小松先生が言っていたことを思い出した。

思うに、対案を出して反論するというのは優等生的にはいい態度なのだけど、対案なんて出せないでも、自分の生き方としてその意見は間違っている、と思った人が、間違っていると思うから間違っている、というふうに言えなくしてしまう考え方は、理屈では合っていても違うのではないかな。

あと対案を出すというのは相手の土俵に乗って相撲を取ってしまうことになるので、根本的な部分での問題が個々の案の是非に矮小化されてしまう危険性もある。「対案を出さないと反論できない」と洗脳(する|される)のは、そもそも相撲を取らないという選択肢もあるのに、それを忘れさせるという弊害があるわけで、全部の選択肢を考慮する人がやるならいいのだけど、「対案出さないと建設的な意見にならないでしょ」とか言われて丸め込まれる人も多いと思うし、自分が丸め込まれると他の人に対して使ってみたくなる(そしてなんかうまく動いているように見える)ので、害のほうが大きい気もする。

昔も書いたかもしれないと思って自分の日記検索したら心の哲学というところに書いていた。同じ結論なんだけど、そこに至る考え方が前と違う。おもしろい。4年も前かあ。しかしこの日他の日記もかなり長々と書いているな……。暇だったのだろうか。