査読で論文のクオリティが上がるのも事実

出勤前、ドラッグストアで薬を探したのだが、店内を5周しても見つからず、店員さんに聞いたらすぐ見つかる……。案内板に載っていないのは難易度が高い。

午前中、中国から一時帰国中の[twitter:@keiskS]くんとミーティング。投稿中の国際会議の査読結果が見られるようになり、反論したければしてもよい、という期間なので、反論方針を相談。とはいえ、下手に反論すると、それまで黙って高評価だった他の査読者まで、やり取りを見て評価を下げることもあるし、本当にクリティカルな誤解を解く以外は、誠実にコメントする、ということに尽きる。しかし見るたびに反論できる単語数が変化 (250→500→1,500) したり、むしろ投稿にまつわるゴタゴタが不誠実であるような……(汗)

昼から機械翻訳に関する研究ミーティングと勉強会。あまり研究的に貢献できていないので心苦しいのだが、どういう研究が進んでいるのかを聞くのは楽しい。聞くだけでなく話せればいいのだが、優先順位としてはどうしても低くなりがち。

夜はソーシャルメディア解析勉強会のキックオフミーティング。参加者は6人で、年内に進捗報告がちょうど3周できるので、よかった。M2の人が多い勉強会なので、できるだけ研究のターンアラウンドを短くしたいのである。

帰るまでになんとか今日〆切の査読を終わらせる。査読付き学術雑誌の終焉というブログエントリが先日Twitterでみなさんに取り上げられていて、査読付きの学術雑誌は今の時代に合わない、という意見にはそれには同意するのだが、査読という制度自体を捨てるべき、というのは間違った方向であると考えている。

実際情報系では査読付きの難関国際会議に論文を出せばもう学術雑誌 (いわゆる論文誌、あるいはジャーナル) には投稿しなくてもいいのでは、という意見の人も北米を中心に出てきているのであるが、日本ではまだまだ査読付きの学術雑誌に論文が掲載されなければ、情報系以外の分野の人から相手にしてもらえないので、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも論文誌に投稿したりする人もいる。ただ、論文誌は不要という人も、査読付きの国際会議があり、そこでかなりの長さの論文を書き、査読でそれなりのコメントがもらえて質がそこそこ保証されるから論文誌が要らないのでは、というだけであり、査読システム自身が不要とまで思っている人はそんなにいないのではなかろうか。

実際自分も査読をする側とされる側、国際会議と論文誌と両方を経験してみると、国際会議ではレベルの高い査読があることによって、おかしな論文が世に出ることを防いでいるし、査読者のコメントによって実際論文のクオリティが劇的に上がることもしばしばあるので、論文の評価をするという目的もさることながら、他の研究者の意見をもらう、というのは積極的に続けてよい制度だと思うのである。