PhD は哲学博士。

博士後期課程3年間の研究の集大成である博士論文の公聴会が開かれた。

大学院のシステムについて詳しくない人のために補足すると、研究者(大学教員もしくは企業や国立の研究所での研究者)になりたい場合、5年間大学院に通う必要がある。前半2年が修士課程、後半3年が(狭義の)博士課程と呼ばれることもある。研究者になりたくて大学院に来たけど、ちょっと研究かじってみたらこれは無理だと思った、と修士課程で就職する人もいる(理工系のように、修士号取得が一般的となっている分野では、むしろ研究職に就くつもりで修士課程に入る人のほうが少数派かもしれないが)。博士号は、この博士課程の3年間を使って、ひとつの研究テーマを深く掘り下げて博士論文を書き、審査に合格したら取得できるものである。昔はいざしらず、昨今は博士号を持っていないと大学教員にはなれなくなってきたので、博士号を取得したら大学で仕事ができる、というよりは、博士号を持っていなかったら大学で仕事ができない、といったほうが正確である(博士号は研究職へのパスポート、と言われる所以である)。

少し脱線すると、文系では昔博士号は取得できないのが当たり前であり、ほとんどの場合博士課程に在籍したあと、非常勤講師をしたりアルバイトをしたりしながら、常勤の職が見つかったら中退して就職する、というのが一般的であった(ちなみに、文系でいう専任講師は理系でいう助教に当たる)。博士号というものは、功成遂げた大御所の教授が、引退前に自分の研究成果をまとめて提出して取得するようなものであった。

最近でこそ「文系でも博士号を出すようになった」とは言うのだが、自分が学部に進学したとき博士にいた人が、ちょうど今年博士号を取得するそうで、逆に自分は「まだ取得していなかったのか!」とびっくりした(2003年から博士に進学したようなので、現在D7だろうか?)。自分の学部のときの専攻は「科学史・科学哲学」なのだが、その人は自分たちの専攻分野でも突出した研究をしており(学振の特別研究員にもなっていた)、自分などは「この人が先輩の中では最短で博士号を取得するだろう」と思っていたくらいなのに、である。ちなみに、自分の学部時代の同期(進学からは2年留年しているので、2年上)も、学振を2回(DC1, PD)取っているにもかかわらず、まだ博士号を取得できていない。哲学のような分野で博士号を取得するのは、恐ろしいくらい優れた人であっても、至難の業なのである。

工学はそれに比べるとだいぶ楽で、ちゃんと着実に研究していれば、規定の年限(3年)で博士号を取得するのはそれほど難しいわけではないし、短縮終了する人も珍しくない。自分はもともと学部ものんびーり過ごしてきたし、いまさら焦っても仕方ないし、短くして中途半端に卒業するくらいなら、ちゃんと3年かけてじっくり研究してから出よう、と思っていたので、短縮終了はしなかった。研究もそれなりに進んだので、無事卒業できそうでよかった。

ちなみに理系は全部同じかというとそんなこともなくて、工学分野では基本的に査読のある論文を何本か通し、それをベースにピースを嵌めるように博士論文を作ればいいので楽なのだが、医学分野では博士論文の審査が終わるまで外部に投稿することはまかりならん、外部に投稿したものは博士論文から外せ、と言われるようなところもあるそうで、博士号を取得してからおもむろに外部の論文誌や会議に投稿したりするもの、らしい。工学の場合は、既に外部で査読が済んで、質が高いことが保証されているものを組み合わせればいいので、審査までこぎつければ卒業できるのはだいたい分かるのだが、医学の場合は(外部の査読を受けていない論文が来るため)審査で「だめ」と言われることもあるらしく、出してみないと本当に卒業できるかどうか分からないそうである。えー、そんな殺生な、と思うのだが、分野によって違うばかりか、同じ分野でも大学によって違ったりもするので、自分の分野・大学のやり方を一般化することもできない。共通するのは、いずれにせよ博士論文の提出にこぎつけるのは、とても大変である、ということだけである。

長くなりそうなので途中を省略するが、自分は奈良先端大の制度を使って外部の人を博士論文の審査委員に招聘したので、公聴会を英語でこなし、質疑応答を含め、なんとか1時間乗り切る。英語を喋るのは久しぶりだったので、けっこう疲れた。研究室の人以外も割と来てくれていたようで、あの内容で専門分野以外の人に伝わったかなとちょっと心配(副査の先生のひとりは専門分野外なので、専門分野の知識を仮定して話さないようには注意した)ではあるが、メールをいただいた人からは「松本研でもう一度学生をしたいくらいです」とコメントいただいたので、たぶん通じたのであろう……。

質疑応答はテクニカルな応答もあったのだが、外部委員として来てもらった Patrick Pantel さんが「あなたがこれからもらうのは Doctor of Philosophy の称号なので、哲学的な質問を最後に一つさせてください(註:もちろん冗談です ;-p)。あなたの研究は、いったい自然言語処理言語学、もっと広く言えば人間にとって、どのような意味を持つのでしょうか」と言われたので、想定外の質問でちょっとウッとなってしばし考えた。結局、人間の言葉の「意味」ってなんだろうか、という問題について、実際に人間が書いたり話したりするデータを使ったアプローチを用いて、「意味」がどのように生まれるのかについて、理論的な貢献をした、ということかな。自分が言語に興味を持ったのは、フレーゲの「意味と意義について」という論文(1892)を読んでからなのだが、この問題について自分は答えを出せているのだろうか、はっとなって思い出した。ちなみにこの論文は

現代哲学基本論文集〈1〉 双書プロブレーマタ

現代哲学基本論文集〈1〉 双書プロブレーマタ

に収められている。目次がないのでコピペしておくが、

という言語哲学の最重要論文が収められているので、自然言語処理を志す学生さんは教養として読んでみた方がいいと思う。あと、副読本としては

言語哲学大全1 論理と言語

言語哲学大全1 論理と言語

をお勧めする。

きっと、自分はこれまでもこれからも、「意味」にまつわる仕事をしていくのだと思う(かな漢字変換も、同音異義語の変換分けをするという観点で、意味の問題である)。理論的にどうなのか、という話を突き詰める一方、実用的にどうなのか、というテーマも磨いていきたいと思う。やっぱり、理論だけで役に立たないのもだめだと思うし、実用上うまく動いていても背景となる理屈がないのも気持ち悪い。Doctor of Philosophy の名前に恥じないような仕事をしていきたいものである。